幕末・維新に活躍した志士たちや幕閣たちの面白エピソードの紹介
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文久2年(1862年)に脱藩し京都で活動し、長州藩士の桂小五郎(木戸孝允)や公家の姉小路公知らと接触する。
2ヶ月ほどで帰郷し通常脱藩は死罪であったが、新平の見識を高く評価した藩主・鍋島直正の直截裁断により永蟄居(無期謹慎)に罪を軽減されたとされる。
1868年、新政府が誕生すると佐賀藩も参加し新平は副島種臣とともに京都に派遣される。
明治6年(1873年)には朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した明治六年政変で西郷・板垣退助・後藤象二郎・副島と共に10月24日に下野、明治7年(1874年)1月10日に愛国公党を結成し12日に民撰議院設立建白書に署名。
大隈、板垣、後藤らの帰郷を思いとどまるようにとの説得にもかかわらず翌13日に離京。
すぐには佐賀へ入らず2月2日、長崎の深堀に着き様子を見る。
2月10日、佐賀へ向い11日、憂国党の島義勇と会談を行い12日、佐賀征韓党首領として擁立された。
そして、政治的主張の全く異なるこの征韓党と憂国党が共同して反乱を計画する。
その後間もなく佐賀の乱が勃発する。
<ウィキペディアより>
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